飲みときどき推し

色々推しつつ麦葡萄芋由来の酒全般を何かにかこつけこじつけ嗜んでいます。今の推し→ゴールデンカムイ、Perfume、ハロプロ(主に娘。とBEYOOOOONDS)等

BLACK LIVES MATTER:抗議活動の洗練と、依然不完全な内面の自覚と許容

ジョージ・フロイド氏の弟さんの呼びかけと、それに対する抗議団体や警官の呼応、とても理性的で、無駄がなく合理的で、賢くキレイでステキなものだったなと率直に感じた。

こうした思考回路とアクションが、いずれスタンダードになっていったらいいなと思う。

 

一方で、そうした「理想的なキレイな思考と言動」が「スタンダードに」なることの副作用も残念ながら絶対にあって、もしかしたら、その副作用の扉が開いてしまったときには「こんな理想、実現しなきゃよかった」とまで思う事態になるかもしれない。

 

ふと思い出したのが、「世にも奇妙な物語」で10年前くらい?に放送された「ヘイトウイルス」。

”何かを憎しむこと”は身体の外にあるウイルスがもたらす状態異常であり、ワクチンおよび治療薬によってヘイト状態からの回復が可能であるという世界。

でも実は、ウイルスもワクチンも治療薬もすべて何の効果もないんだけどね、というオチ。

 

今回のジョージ・フロイド氏に関する弟さんはじめ抗議活動の関係者は、非常に先進的な思考と言動を実践していて、世界レベルで多くの人に刺激を与え・先鞭をつけ、学ぶところの多いものだと思う。

ただし気を付けたいのは、我々に見えている彼らの思考や行動は、あくまで、そうした表現手段を意識的に選んだということであり、原初的に純粋に生じた当然の感情・反応では必ずしもないということ。

兄を殺した警官をボコボコに殴り倒したいと思う夜もあったかもしれない。だけど、そうした感情は感情として持っていたとしても、行動とは切り離す。そういう冷静さと合理性。

 

今後人間の「行動」様式は、より冷静に合理的に理性的に進歩していくとしても、人間の思考・感情・反応といった内面は、少なくとも行動様式の進歩とまったく並走して進歩していくことは無く、また思考様式はともかく感情の発露は制御・成型のしようがない。

という、人間の内面のコントロール不能な不完全性は、あらゆる行動様式およびその変化・進歩の前提あるいは裏返しに常に自覚・自省されるべきだと思う。

 

言い換えれば、人間の理性の進歩を、あたかも種としての人類の進化かのように錯覚してはならないということ。

より理性的な行動様式がいかに当然かのように習得されたとしても、その行動に純粋な感情発露からノーステップで直結するように人間の内面が最適化されたわけではなく、行動ノウハウの開発と定着が進んだにすぎない。

洗練された行動から切り離されたドロドロの感情は依然その人の内面に発生・存在しうる。むしろある意味では、そうした人の内面を、身体の外に示す行動へ結び付けないことで、内面の自由を確保しているとも言えるかもしれない。

人の内面まで理性的に合理的にキレイキレイできるなんてことは到底ありえない。

 

だけど、「ただしいりそうてきなすがた」への追求と要請はえてしてその「正しさ」を御旗に暴走しやすく利用されやすく、理想的な「行動」を思考へと直結させるような暴論もその中でおそらく一定数生まれてくる。

それは個人レベルでもそうだし、それこそ『監視社会』(フーコー)で指摘される刑罰の移り変わりや自己監視に示されるような国家・政府による管理と非常に相性がよろしい。

私たちは行動様式を進歩させていくうえで、元来もっている内面の不完全さに自覚的になり、残念ながら変えがたいその不完全さに向き合い、これを受け入れ、そのうえで割り切って自覚的にせめて行動を変えていくという、「自己の内面の限界と、理想的な対外的自分および世の在り方との橋渡しノウハウ」としての姿勢を自覚・実践していくべきなのだと思う。

安易で横暴な思考のクリーニングと均一化、思考の自由の喪失を防ぐために。

 

とか言っていたら偶然、NET FLIXでやってるアニメ「PHYCHO-PASS」シーズン1が面白いと友人から劇推しを受けたのだけど、これのあらすじを聞くに上記の「ヘイトウイルス」や監視社会をテーマにしているらしくて興味惹かれている。これを機にネトフリ加入しようかな。